林道への案内板

林道データベース Ver. 6.3

学習のため...

学習のため... 返信

  1. 投稿者:りり 山梨県
  2. (投稿日:2003/09/10 / 更新日:2003/09/24)
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はじめまして。私は小6の女の子です。
実は明日、中央区のある小学校との交流の事前調査という事で、中道往還に登って来ます。(学校と遠くはないため)
今、"中道往還の歴史"というテーマで調査しているのですが、なかなか良い情報が集まりません。
そこで、伺いたい事があるのですが、知っている限り、教えていただければうれしいです。
Q1.
中道往還はいつできたのか。
Q2.
主にどんなことに使われたのか。
Q3.
できてどれくらい経つのか。

以上です。
はっきりとした情報ではなくても、そのHPのリンクなどしていただけると嬉しいです。

それでは♪

              ☆りり☆

中道往還の歴史

  1. 投稿者:うーたん
  2. 投稿日:2003/09/17
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webマスターの中道往還の歴史を調べてみたのですが、インターネット上にはほとんど見あたりませんでした。
そこで、わたしが知っている限りのことをお教えします。

いつ出来たかですが、
中道往還は武田信玄が駿河の国(今の静岡市、清水市、沼津市の辺り)に軍隊を派遣するときに使用したことが古い文書等から確認されています。また、それ以前の時代、武田信玄のお父さんの武田信虎の時代にも「塩」を運ぶ道として利用されていました。
武田信玄はに1521年(大永元年)に生まれて、1573年(天正元年)に亡くなっていますから、そのお父さんの時代からすでに荷物や人が往来していたことになります。1400年代には開通していたと思います。

主にどんなことに使われていたかですが、
駿河からは甲州(山梨県)へ運ばれた主な商品は先にも書いたとおり塩でした。駿河を治めていた「今川氏」は、武田氏との関係が悪化すると「塩止め」と言って塩の山梨への販売を停止したそうです。塩が買えなくなると、みそ汁や漬け物など、塩を使った料理が出来なくるほか、病気になりやすくなったりもするので、山梨ではこの「塩止め」を今川氏が行うことを恐れていたそうです。

また、武田信玄が亡くなった後、織田信長が駿河、甲州に攻め込んできて武田氏を打ち負かしましたが、そのときも甲府盆地に入るときに中道往還を通っています。

甲州(山梨)からは金などが駿河に売られていたそうです。
でも、甲州から駿河へ移動したものは軍隊です。武田氏が率いる甲州軍(武田軍)と言えば日本で最も強い戦国時代の武士として、周りの人々に恐れ敬われていたのですが、その武田氏が甲州から信州を占領し、信州占領が終了すると、今度は駿河へ攻め込んできました。最後は三河(愛知県)まで攻めてきた所で病気で亡くなりました。

最後に、どれくらい立つかですが、
これはわたしの想像ですが、おそらく人が通る道としては鎌倉時代(1300年前後)にはあったと思います。ただ、沢山の人が往来できるように道幅を広くしたり、整備したのは武田信玄だと思います。
出来てから700年以上はたっているでしょう。

以上、どの程度お役に立つか分かりませんが、お答えです。

ありがとうございます!

  1. 投稿者:りり
  2. 投稿日:2003/09/22
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はい、ありがとうございました!!
おかげで交流学習も成功に終わりました。
本当にありがとうございました!!

おやくにたててよかっかです

  1. 投稿者:うーたん
  2. 投稿日:2003/09/24
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りりさんのお役に立てて良かったです。
地理や歴史に関することで、古道(昔からの道)は以外に現在は中道往還のように、未舗装の林道となって現存していることが多いのです。

他にも江戸時代に山形県と宮城県を往復した街道が現在は田代林道として残っています。
このような話題でしたら大歓迎ですので、いつでも書き込みしてくださいね。
ではまた。

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